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ART BEYOND DOMESTIC

2021年4月1日

緑川雄太郎

はじめに

アートはドメスティックを超えていきます。だからそれはART BEYOND DOMESTICです。この『ART BEYOND DOMESTIC』は、椹木野衣さんのテキスト『ART / DOMESTIC 2021』を基に、ART BEYOND DOMESTICを提示するために書かれたテキストです。


「ドメスティック」

まずは「ドメスティック」問題を整理します。椹木さんが『ART / DOMESTIC 2021』で主題にした「ドメスティック」は、1999年の展覧会『時代の体温 ART/DOMESTIC』を参照しています。椹木さんは「ドメスティック」をこう再定義しようとしています。「つまり、この場合のドメスティックとは、一見して誰もが感じるグローバルな時代に逆行する価値観ではなく、いわば体温を感じさせる、言い換えればごく身近な距離のなかで美術を考える、ということでもあったはずなのだ。」。その後このような結論を導き出しています。「ドメスティックであることこそが、グローバル=ナショナルであることへの数少ない抵抗手段なのである」。そして最後に椹木さんは、『「時代の体温」』、「その熱量をもう一度「ART/DOMESTIC」として見出すこと」を「強く願」っています。


問1

ここで1つ目の問いが発っせられたとします。上述の願いを仮に『「悪い場所」の願い』と考えたとき、それは日本に限ったことだと言うことは可能なのでしょうか(「椹木によれば、日本の戦後美術は、絶えず同じ問題が反復的に立ち現われるがゆえに、その歴史を「通史」としてまとめることが難しい。この閉ざされた円環の非歴史性を、椹木は「悪い場所」と呼んだ」artscape)。


応答

私からの応答としては、不可能です。『ART / DOMESTIC 2021』の第9パラグラフで椹木さんは『時代の体温 ART/DOMESTIC』のキュレーターである東谷隆司さんのテキストを引用していて、そこには『「身近(DOMESTIC)」な場所としての日本のART。』とあります。ただこの「日本」には、実際のところ、どこの国を代入しても可能だと言えるでしょう。それがアメリカでも中国でもドイツでも、アートは基本的に地球上のどこかの国や地域でつくられているからです。アートはそもそも「ドメスティック」なものです(例えば一般的に名画と呼ばれて思い起こされる多くのペインティングは、ペインターが主にスタジオで一人で描いた作品が多いでしょう。それはキャンバスを前にしたペインターの、非常に「ドメスティック」な行為です)。しかし、「ドメスティック」で終わらないのがアートです。「ドメスティック」のその先にアートはあります。


問2

ここで2つ目の問いが発っせられたとします。アートは「グローバル=ナショナル」ではなく「ドメスティック」であるべきなのでしょうか。


応答

私からの応答としては、そうあるべきではありますが、そうあり続けるべきではありません。「グローバル=ナショナル」ではなく「ドメスティック」という発想は、グローバル/ナショナル(あるいはローカル)という二項対立と(意味は違いますが)構造的には変わりません。アートはヘーゲルの「Aufheben(止揚)」、あるいはホミ・バーバの「Third Place(第三空間)」に似ています。AかBかでなく、C、あるいはC’がアートです。椹木さんが言うようにアートはまず「ドメスティック」であるべきではありますが、アートは「ドメスティック」のその先へ向かうため、「ドメスティック」であり続けることはありません。ここで忘れてはならない点は、「ドメスティック」を超えるために、まずは「ドメスティック」になる必要性は十分にあるということです。あるいは、ただならぬ「ドメスティック」がART BEYOND DOMESTICになるとも言えます。


問3

ここで3つ目の問いが発っせられたとします。アートはどのようにして「ドメスティック」になり、「ドメスティック」の向こうへ行くのでしょうか。


応答

私からの応答としては、MOCAFの補足・解説がそれにあたります(このテキストが『ART / DOMESTIC 2021』を基にしている理由は単純で、MOCAFが『ART / DOMESTIC 2021』で言及されており、読後、何かを書かなければならないと思い立ったからです。ちなみに私はMOCAFのディレクターです)。2021年3月11日、MOCAFがある場所とそこに集まった人たちの状態がまず「ドメスティック」だと言えます(何の前触れもなく集まった通りすがりの人たちではなく、いくつもの関係性、経緯、理由が複雑に織り成されて集まった人たちです)。そしてMOCAFのドアを開いたことで、何かが変わった人たちが「ドメスティック」の向こうへ行った人たちだと言えます(アートに関心があっても何も変わらなかった人はいるでしょうし、アートに関心がなくても何かが変わった人はいるでしょう)。MOCAFはミュージアムですが、あの回転扉による「奇妙」な瞬間あるいは時空は、ART BEYOND DOMESTICだと言えるでしょう。アートが奇妙あるいは不可解と形容される理由は、それが既知のAやBではなく、未知のCあるいはC’だからです。それは言語化し難い領域に位置しているために、そう形容せざるを得ないことが多々あります。『ART / DOMESTIC 2021』に、「始まりが終わりでもある、その意味で回転扉のように終わりが始まりにもなる循環を繰り返すこの奇妙な美術館」とあります。通常の回転扉は、入口を入ったら直進方向に出口があります。あるいは360度の倍数を回って入り口に戻る。この2択です。しかしMOCAFの回転扉は入口から45度回って出ることも、600度回って出ることもできます。つまり入口の場所も出口の場所も自分で選ぶことができます(外円に6本の柱が物理的に存在するので正確には360度どこからでも入って出ることができるわけではありません)。2021年3月11日14:46に黙祷、そしてテープカットをした後、MOCAFへの入館がはじまり、その後この回転扉は16:00に解体され、焚き火の薪になりました。このような一連を「奇抜な着想」と椹木さんは『ART / DOMESTIC 2021』で記述しています。この「奇抜な」という形容の内部に「ドメスティック」を超えたART BEYOND DOMESTICが内包されています。いろいろな言い方はありますが、MOCAFは、「悪い場所」の「閉ざされた円環の非歴史性」を解こうとしている、と言えば大袈裟でしょうか。311以降、毎年3月11日に行われるセレモニーの多くに通底しているコンセプトは追悼や鎮魂です。しかしこの3月11日にMOCAFではミュージアムの開館を祝うテープカットが行われ、来場者は回転扉を回ることで、ある特殊な空間に入っていきます。どこかに留まるのではなく、どこかへ行こうとしています。311から10年、東京電力福島第一原子力発電所から直線で約10km離れた場所、混沌と解放を想起させるサウンド『mocaf.7707-7708.1-1』が漂うあの場所で、各人が各人のストーリーを携ながら、思い思いにドアを回し、どこか別の空間へ移動する。もちろん、一般的なユークリッド幾何学を基に考えれば、ただドアと人が3次元空間を回転しただけだと言われればそれまでです。しかし本当にそれだけなのでしょうか。それ以外の何かはそこにないのでしょうか。物理的移動以外の何かを証明する術は、物理的には存在しないのかもしれません。そして同時に、その先には何も無いということを証明することもできない。であれば、何も無いとは言えない。それは名指し得ない何かである可能性があり得る。それを明言することはできないが、例えばそれをART BEYOND DOMESTICと仮設することはできる。ART BEYOND DOMESTICは、ある特定の場所である特定の人(たち)がある特定のことをすることで立ち現れたり呼び覚まされたりする。そこには「ドメスティック」ではなく、ただならぬ「ドメスティック」があるからこそ、ART BEYOND DOMESTICへと繋がっていくドアが開かれる。そこは特殊と普遍が交差する不可解な時空であるかもしれない。そこには、時を経てもなお思い起こされる特異な何かがあるかもしれない。あれは一体何だったのか。MOCAFに入る前と入った後の世界は同じ世界なのだろうか。そうではないかもしれない。あるいはMOCAFの回転扉は、循環を繰り返す回転扉(a revolving door)ではなく、知覚や感覚の向こうにあるART BEYOND DOMESTICを志向するための転換扉(a turning door)なのかもしれません。ドアの向こうには何があるのか。それはMOCAFのドアを通った人たちの何人かが知っている(知ることになる)のかもしれません。


おわりに

以上、「ドメスティック」を巡る3つの問いと応答を追ってきました。改めて言うまでもないことですが、すでにお気づきのように、この『ART BEYOND DOMESTIC』というテキストは、椹木さんのテキスト『ART / DOMESTIC 2021』への否定的見解を述べるものでも抵抗手段でもありません。むしろ、「ドメスティック」のその向こうに位置するART BEYOND DOMESTICにとって「ドメスティック」が必要不可欠であるように、『ART / DOMESTIC 2021』は『ART BEYOND DOMESTIC』にとって重要な前提です。書かなければならない何かを書くことができたかどうかはわかりません。一つ言えるのは、今書けることができるのはこれ以上はないということです。